タイポロジカルということ

生物の分類学者に対して、タイポロジカル(typological)だと評することは、かなりヒドイ侮蔑の言葉だろう。タイポロジカルだと居直っている人でない限りは、自分はタイポロジカルではないと弁明するに違いない。

生物でいうタイポロジカルとは、なにか典型やら理想やら本質やらを想定して、変異に目が行かないことだろう。たしかに生物学を多少なりとも学んだ人ならば、個体変異があることは周知のことなのだから、タイポロジカルな発想は過去のものだと思うだろう。

タイプとトークンの区別を知ったときに思ったことは、トークンからタイプを導き出すことがタイポロジカルではないのかというものだった。トークンから共通の性質やら本質的特徴を考えたりするようでは、タイポロジカルであることは免れないように思われる。

タイポロジカルな発想は、あらゆる人間の発想に根強く巣食っているのだろうから、生物の分類学者でさえも、かなり意識して排除するのでなければ、タイポロジカルになってしまうのだろう。そんな例を、おいおいと挙げて行きたい。


【08/12/04 追記】
ここではタイプとトークンとの関連から、タイポロジカルということを取り上げたのだが、生物学的な意味合いを論じるなら、typological thinking に対する population-thinking やら、また最近ではtree-thinkng というのも提唱されているらしい。さらに、哲学的なことまで考えるならば、本質主義(essentialism)が関わってくるのだろう。もちろん、そんな広範な話を論じられるような勉強はしていないので、このページでは、具体的な例に即して考えて行きたい。