Mayr と essentialism

はてなのブログにリンクを付けると、自動的にトラックバックになってしまうので、こっそり文章を書いている身としては、相手のブログの著者を煩わせることになって申し訳ないのだが、引用せざる得ないこともあってリンクを付けさせてもらう。

いつも参考にさせてもらっている「まとまり日記」に「分析哲学を理解するには意外と訓練がいる」という記事があった。その文章全体の趣旨は、それぞれの学問分野では独特の言葉の使い方があって、外国語(分析哲学の場合には英語)に堪能だからといって、正しく訳せるわけではないというものだろう。


ところが、以下のような文章があって、少し考えてしまった。

マイヤーの本で、essentialism(本質主義)が「実在論」と訳されたことがあった(マイヤーは個々の種に関しては本質主義に反対するが、種カテゴリーについては実在論者なので、このように訳すとマイヤーの主張を完全に取り違えてしまうおそれがある)…


Mayr の重要なキーワードに言及しているのだが、その訳語の適否を論じる文章にしては、少し言葉足らずではないかと思った(簡略化して述べていることもあるのだが)。あるいは、個々の種(タクソン)や種カテゴリーについて、Mayr の見解は、本当にそのとおりなのだろうか。

essentialism に「実在論」の訳語を当てることは、私の持っている辞書にも載っている。Mayr が essentialism を持ち出すのは、哲学的な議論よりは、typological thinking を攻撃(その対極が population thinking )するためのものだろう。一方で、哲学的な文脈で実在論といえば、realism と nominalism (唯名論)の対比ということだろうが、essentialism がなんらかのエッセンスやタイプの存在を想定するのだとすれば、実在論だと言えないこともない。もちろん、当該の訳書の文脈については知らないのだが。

ところが Mayr の話はさらに複雑で、タイポロジカルとして攻撃したのは、種内の個体がなんらかの共通性を共有しているとみなす発想だろうが、その一方で、種としてのまとまりを成り立たせているものは、生物学的種概念でいうような繁殖集団としての意味合いだろう。つまりは、個々の個体に対しては唯名論的(エッセンスのような普遍は存在しない)であり、個々の種(タクソン)に対しては実在論的となるのではないか。

さらに、「種カテゴリーについては実在論者」であったというのも、よくわからない。種カテゴリーが種タクサの集合なのだと考えれば、そこに普遍を認めることは簡単だろうけれど、Mayr はそのような方向で議論をしたのだろうか? 後期の Mayr は、生物学的種概念を守備するあまりに、遺伝的な相互作用やら特有のニッチやら、わけのわからんことを持ち出した(そのこと自体タイポロジカルだろう)ので、話がさらに複雑になる。

まとまり日記の著者が訳された Sober の本にも essentialism のことが触れられているようだ。原書を持っているので、訳本を買う気になれなかったのだが、さてどうするか。

ついでに、「進化論の射程---生物学の哲学入門(立ち読み版・6章)」の記事を読むと、"If species are unreal" という表現を、「種が実在しないなら」と訳しているようだ。この場合の種は、タクサとしての種だろう。私は個々の種タクソンがリアルだと思ってきたが、それが「実在する」という訳語になることを、あまり意識していなかった。


追記:前に書いた「カテゴリーとしての種、タクソンとしての種」という記事を読み返して見ると、関連することを書いているようだ。そこでは、タイプとトークンの区別を援用しながら、タクサやカテゴリーの“実在”について論じているが、その時点では、entity という単語を意識していたのだと思う。