カテゴリーとしての種、タクソンとしての種

生物の種を議論するときに、「種」という言葉には、カテゴリーとしての意味(種カテゴリー)と、タクソンとしての意味(種タクソン)があるとよく言われるのだが、必ずしもよく理解されているとはいえないようだ。

このあたりの区別を、先に述べた「タイプとトークン」の区別を交えて考えれば、わかりやすくなるかもしれない。

種タクソンは、具体的な分類群のことだから、トークンだろう。一方、種カテゴリーは、タイプであり、種タクソンをトークンとするものだろう。*1

本来、カテゴリーというのは区分ということであり、「種」というカテゴリーは、種−属−科−目−綱−門などと並べられる分類ランクのひとつである。種よりも下位の区分として、亜種やら変種やらがあり、また種の構成要素として、個体群(=集団)やら個体やらがある。それで、どのようなものを種のランクに置くのか、ある対象が種であるか種でないかを決めることが問題になり、種の“定義”だとか種概念だとかが提唱されている。

種概念が、あらゆる種タクサから帰納的に導き出されたものか、あるいはなんらかの理論から演繹的に導き出されたものかは、いろいろだろうが、いずれにしても、抽象的なものであり、タイプだろう。タイプであるから、物質的なものではない。種が「実在」するかどうかの議論があるが、種概念や種カテゴリーはタイプであるから、実在ではない。種タクソンは、トークンであり、実例としての存在なのだから、実在するに決まっている。もちろん、「実在」するということがどういうことなのかは哲学的に厳密な議論があるのだろうが。

また、トークンである個々の対象自体が、種であるかどうか決定されるために、なんらかの基準が必要だとなれば、種概念が先かタクソンが先かとなって、普遍論争のようなものになるのだろう。それで、先の三中さんの本でも、普遍論争の図式についても触れられている。

さらに、生物の種に関する近年の生物学哲学の論争にも持ち越されているということで、M.T. Ghiselin の議論にも触れている。つまり、種とは、ある属性を共有する生物の集合すなわちクラスなのか、それとも時空的に限定された個物(individual)なのかの問題である。

ところで、Ghiselinが、クラスなのか個物なのかで問題にしたのは、種タクソンについてだろう。また、Ghiselinが否定したのは、個体をトークンだとして、そのタイプ(=クラス)が種タクソンだとする見方だろう。このことは、個体がトークンであると同時に、種タクソンもまた別のトークンであるということだろう。

トークンとタイプを区別することが、普遍論争の蒸し返しではなくて、どのような新しい面を主張しているのかよく知らない。トークンからタイプを抽象するという方向では、普遍論争と同じように思える。Ghiselin の「個物としての種」の重要なことは、そのような普遍論争から一線を画するために、種タクソンがトークンであると宣言したことだろう。


以上、トークンとタイプの区別に刺激を受けて、少し「種」について考えてみた。Ghiselinの元にも当たってはいないのだが、間違いや思い違いがあったら、指摘してください。

*1:だから、種タクソンが a species であり、種カテゴリーが the species であるのも納得がいくのではないか(2008/11/18追記)