泉南と東播の対比
昨日泉州のことに触れたついでに、かねがね思っていることとして、泉南と播磨地方、特に私が生まれ育った明石を含む東播地方との類似性を書いてみたい。縁があって、泉南地方を頻繁に訪れるようになって以来、いつもなにか懐かしい気持ちを抱いて来た。そのことの意味を私なりに解きほぐしてみたい。
泉南と東播が似ているのは、たぶん京都・大阪に対する空間的な配置が似ているからだと思える。ちょうど大阪までの距離が同じようなものなのだろう。それに町の配置も、中規模の城下町としての岸和田と明石、大きな城下町としての和歌山と姫路がある。それから、配置は多少ズレるが、堺は神戸と対比されるだろうし、堺周辺のいくつかの市は阪神間の都市に対比されるだろう。泉南の町は加古川や高砂などの街道筋の市や内陸部の都市との対応が考えられるだろう。これらのそれぞれの町は、大阪までの距離感を反映して、独自の歴史や文化を営んで来たものと思われる。
地形・風土も似ている。大阪湾に面している部分は共通であるし、播磨灘も瀬戸内海ということでは似たようなものだろう。それに、狭い海峡として、友ヶ島水道があり、明石海峡があるのも共通である。これらは、漁業や海運など、海とのつきあい方でも共通のものをもたらしたであろう。陸上においても、なんとなく台地状で、ため池が多いのも共通している。
もちろん、和泉は畿内であり、播磨に比べれば、奈良や京都の中央の文化にはるかに近かったのだろうから、中央からの影響の度合いはより大きいのだろう。しかし、いずれにしても、中央と密接につながりながら、その距離を反映して(つまり、ちょっと田舎っぽい)独自の文化が営まれてきたものと思われる。
泉南地方を訪れるようになったのは5年ほど前からだった。上のような歴史や文化の伝統もあるし、人もたくさん住んでいるのに、なにか元気がないように感じた。関西空港が当初の思惑通りに行かないことや、バブルの崩壊もあったのだろう。だんじりややぐら以外にもすばらしい歴史や伝統があることには、案外、地元の人も気がついていないようだ。昨日取り上げた「堺泉州の隠れた名所」では、まさにそのようなすばらしい場所が触れられている。自分たちの足元を見直すことから、新たな発展が生まれるに違いない。