レプリカの意義

たまたま近くの図書館で、『標本の作り方―自然を記録に残そう (大阪市立自然史博物館叢書 2)』という本を見ていたら、「レプリカの意義」というコラム(p46)があった。その中で、

 博物館で実物でなくレプリカを展示していることが多いわけが、おわかりいただけたでしょうか。博物館の展示からレプリカを抜いてしまうと、実にさびしいものになるでしょう。博物館で展示しているレプリカは、実物から型を取って、実物そっくりにつくられています。くれぐれも、展示してあるレプリカを見て「なんや、ニセモノか」とバカにしないように。


と、書かれていた。まさに、先に書いた『なぜ本物を展示するのか:反「レプリカ礼賛」』に対する反論のようになっている。大阪市立自然史博物館は、ホンモノの展示にこだわっていると思っていただけに、かなり意外な気がした。そのコラムの文章を読んでみても、「実物でなくレプリカを展示していることが多いわけ」に納得出来なかったので、敢えて反論してみたい。

そのコラムに挙げられている例としては、ジオラマの中で、花や葉などのように、生きたままの状態を保てないようなものや、動物でも、両生類や魚類のように、剥製にしても色や形を保てないものでは、レプリカを使うのだという。つまり、標本では表現できないものを、レプリカで表現するのだということらしい。

しかし、上の論拠は、ジオラマにこだわるからではないだろうか? たしかに、大阪自然史博物館のジオラマは、それなりのストーリーがあって、かなり出来の良いものだと思う。しかし、そうだとしても、ジオラマ自体が所詮はニセモノではないのか? 例として挙がっている「照葉の森」や「里山の自然」や「ミツガシワの沼」などで、実際の風景を再現するとは言っているものの、実は本物の風景の簡略版か要約版でしかないだろう。隣の植物園や野外観察会で本物の風景に触れることに敵うはずもない。もちろん、ジオラマという立体模型で、群集のエッセンスや概略を博物館の室内に表現することのメリットはあるだろう。しかし、それだけの手間と金をかけるくらいなら、写真やパネル、あるいは動画など、いろいろな表現手段があるのではないだろうか。博物館の展示で、ジオラマが定番となっていること自体を、改めて考え直してみてもいいのではないか?

化石や地質の場合には別の事情もあるらしい。全身骨格を再現するためには、すべての骨がそろって出土するわけでないし、非常に珍しいものでは(例えば始祖鳥のようなものか)、レプリカでもしょうがないということらしい。あるいは、地層に残った足跡の化石や「地層のはぎとり」などの場合には、樹脂を使ったレプリカのようなものになるらしい。しかし、このような場合でも、本物があって、そこから重要な情報をいかに残すか、あるいは引き出すかということのために、レプリカをつくるのだろう。なんでもレプリカでいいということではないだろう。

例えば、本の中でもナガスクジラ骨格標本に触れられているが、それは、大阪湾に漂着したものであるのに対して、こちらの太地町立くじらの博物館のシロナガスクジラの骨格標本は、ノルウェーの標本のレプリカである。このシロナガスクジラのレプリカのために、3000万円も使ったらしい。どちらの方が意義があるかは、言わずもがなだろう。


そもそも、「標本の作り方―自然を記録に残そう」という本自体が、時間の経過とともに失われて行くものを、いかに標本として残すかということのために書かれたものだろう。当然のことながら、死んだ生物は、生きたままの状態を保っているものではないから、標本になって失われてしまった情報もいっぱいある。そのために情報をいかに記録するかについても触れられている。そして、標本として残すことによって、後から調べることも出来る。そのような意味のある標本を作成するためにどうするべきかについて、この本は非常によく書けている。

博物館の目的には展示があり、展示のためにはレプリカも必要だということ、レプリカの作成のために手間も費用もかけていることなど、学芸員の人にとってのレプリカに対する思い入れは、理解できないわけではない。でも、あくまでも標本が主であり、レプリカは従だろう。ひところ、海洋堂のフィギュアを並べることが、博物館でも流行ったことがあった。そのことの意味とレプリカを並べることの意味とを対比して考えてみれば、レプリカの意義も見えてくるのではないか。