博物館とレプリカ1

レプリカのことで、いろいろ書いたので、ネットの情報も少し調べてみた。博物館学などという学問があって、今どきの大学生は、学芸員の資格をとるときに講義も受けるそうだから、このようなレプリカの意義などといったことも触れられているのかも知れないが、ここでは私の目に触れた範囲内のことから感想を述べる。

国立歴史民俗博物館の小島さんという方が書かれている「博物館とレプリカ資料」という文章は、かなり参考になった。全体的な趣旨も、私自身が考えていたことと一致する。レプリカは、元のものが持つ情報の一部のみを転写したものに過ぎないから、その限界を認識した上で、活用するべきだ、といったことが述べられている。

また、レプリカに積極的な意義があることも知った。実物に対する代替品というような消極的な意味合いだけではなく、体系的な展示が出来るとか、復元的な製作ができるということもあるらしい。部分的な骨の化石から、レプリカを使って、全身骨格を復元するというのも、このような意義だろう。

「今日博物館でレプリカ資料に接した人たちのほとんどは、好意的か否かは別として、「最近のレプリカはよくできている」という感想をもらす」とのことであるから、そのようなレプリカの出来の良さに騙されて、レプリカがニセモノであることを忘れがちになるのだろうか。いずれにしても、レプリカの意義を問い直すことは意味があるものと意を強くした。

上のサイトに書かれていたことに付け足すとすれば、歴史的な資料と自然史的な資料との間での意味合いの違いだろう。

歴史的な資料の場合には、ある時代に製作されて、その後の歴史を経て来た“唯一”のものであることが、強く意識されているのではないか。唯一のものだから、レプリカをつくる必要性もあるのだろう。一方、自然史の資料の場合には、同一種の個体はいくらでもいるから(化石やトキのような絶滅種でない限りは)、資料の唯一性があまり意識されていないのではないか。標本にして、ラベルを貼ってみれば、いつ・どこで採集されたかが明示されることで、唯一性が明らかになるのだが、ジオラマなどの中に、単なる景観の構成要素として並べられたようなものでは、標本だろうと、レプリカだろうと、大した違いはないということになるだろう。化石の場合には、ある特定の場所から出土したことが明瞭であるから、その唯一性を多少は強く意識するかも知れないが、それでも大量に出てくるようなものなら、ありふれたもののひとつになるだろう。

また、なにを再現するかである。歴史的な資料の場合には、現状を再現するのか、製作時の状態を復元するのかが問題になるらしい。自然史の場合、ジオラマのレプリカは、生きた状態を再現するものだろう。生きた状態を再現するということは、極論すれば、水族館や動物園や植物園の本物の生物には敵わないということである*1。もちろん、生物には季節性や変化があり、自然界ではいつでも花や特定の現象が見られるわけではないということから、レプリカの利点も少しはあるかもしれない。

 ここでの結論として言えることは、レプリカが原品の持つ情報の一部のみを転写したものであり、しかもその客観性が保証され得ないものである以上、レプリカは単体の陳列物としては使用すべき物ではなく、特定の展示シナリオの中で用いることではじめて意味を持ち得るものではないか、ということである。およそ展示という行為は、多かれ少なかれ観覧者に特定の見方を強要する性格を持っているが、レプリカは、視点の限定化を押し進めてしまう方向の中で、特定の要素、概念、学説等を説明するシナリオの中で、資料の見方を特定してしまうことによってのみ、はじめて展示に用いる正当性を持ち得ると言えよう。

ここから、なぜジオラマがつまらないかが読み取れる。ジオラマは特定のテーマの下に作成されたもので、そのことではよく出来たものであっても、それ以外の解釈が出来ないものなのだろう。そして、いつ見ても同じであるから、一度見たら、何度も見たいとは思わないだろう。本物ならば、「見る度に新たな発見」ということもあるのだろうが。

ついでに、ジオラマという言葉は、てっきり geology, geography の geo- から来たものと思っていたら、diorama とつづるらしい。

(この項続く)

*1:博物館と水族館を併設した形式である和歌山県立自然博物館で、いかにジオラマが観客に無視されているかは、以前に書いた和歌山県立自然博物館 - ebikusuの博物誌