橋杭岩の津波石

前回のさらし首層に続いて、串本町橋杭岩に行った。橋杭岩は、この地域の観光スポットでもあり、これまでにも何度も訪れたことがある。今回も、日曜日だったこともあって、しばらく前に開設された道の駅とともに、多くの観光客で賑わっていた。





橋杭岩の地質学的なことは、設置されている解説板や、いろいろな案内書などで、多少なりとも知っているつもりだった。熊野層群の堆積しているところへ、石英斑岩の岩脈が貫入し、その後隆起して、熊野層群の泥岩は侵食されたが、石英斑岩は硬くて、侵食されにくくて、橋の杭のように残ったらしい。それでも、専門家から現場で直接教えてもらうことで、これまでまったく知らなかった多くのことを学ばせてもらった。




まず、熊野層群に石英斑岩のマグマが貫入したときに、周囲の岩が熱変性したらしい。このことは、いろいろなところから読み取れるらしい。上の写真では、マグマがしわ状になっていて、そこに熊野層群の泥岩がくっついて、風化されにくくなっている。これが大規模になると、那智黒石のようになるのだろうが、橋杭岩の板状の岩脈では、それほどの熱がなかったということか。


今回説明を聞いて、一番驚いたことは、“橋杭”の手前に転がっている岩が、津波で運ばれたということである。その解釈の根拠として、転がっている岩に付着しているヤッコカンザシという生物遺骸の年代推定をしたところ、12〜14 世紀と17〜18 世紀の 2 つの時期のものが見つかったらしい。それが、それぞれの時期の大きな地震、特に1707年の宝永地震に対応すると考えられるらしい。このような岩は、いくらでもゴロゴロ転がりそうに思うが、台風くらいでは動かず、大きな津波でないと動かないらしい。実際、1946年の南海地震クラスでは動かなくて、400-600年 おきの巨大地震と対応しているらしい。ヤッコカンザシは、岩が動いたときに、生息場所の潮位からはずれることで死亡して、その年代を記録したものということになる。




それで、実際に自分たちで探して、見つけたものが、上の写真である。このヤッコカンザシの集まりは、岸近くの岩の表側に付いていたもので、ヤッコカンザシが岩の裏側などの陰になったところを好むことからすれば、この岩自体がひっくり返ったものとなるのだろう。外見的には、いかにも化石のように見えるが、もし1707年の地震によるものだとして、300年間の風雨に耐えて残ったものか、あまり自信はない。

この話にはよくわからないところがいろいろあって、インターネットで検索をしてみると、いろいろな文献を拾うことが出来る。宍倉さんという人の論文を新しいもの(PDF) から辿っていると、他の地点の海蝕崖などで残っていたものは、見事にいくつかの層になって重なっているのが識別出来る (PDF)。そして、それぞれの層の年代を決めることによって、いくつかの年代のものが重なって付着しているのがわかるらしい。隆起の時点でいったん死亡して、その後徐々に沈降をしていくことによって、再び付着するらしい。このように、層の重なりから、隆起−沈降の繰り返しが読み取れることになる。

ところが、橋杭岩の場合には、2つの時期のものが見つかっているらしいが、それぞれがどのような岩から見つかったのか、私が読んだ限りの文献では、よく辿れなかった。津波以外にも、波食台が隆起や沈降するのだろうから、ヤッコカンザシが死亡する原因は、津波だけでもないだろう。それに、今は道路や駐車場が出来て、以前の海岸線からも変わっているだろうから、実際に津波で動かされた状況がそのまま残っているものか疑問に思えるが、ある年代を示す生物遺骸が残っておれば、それはそれで巨大地震津波に対応するものとなるのだろうか。


ついでに、前回「さらし首層の潮位」を考えたことからすると、この橋杭岩の波食台の潮位も気になる。当日は、さらし首層よりも、水たまりが多くて、歩きにくかったことからして、さらし首層よりも、潮位が低いことがわかる。たしかに、以前に橋杭岩を訪れたときに、潮が満ちていて、橋杭の岩まで行けないこともあった。満潮になると、ほぼ必ず水に浸かるような潮位ということだろう。

上の宍倉さんの論文では、1928-1947年にかけての水準点の変動量(隆起量)は、潮岬の南へ向かうにつれて、大きくなるようだ。しかし、今回見てまわったところでは、同じような波食台でありながら、南にある橋杭岩より、北にあるさらし首層の方が高くなっている。それぞれの地点に事情があって、単純な傾向では割り切れないのかも知れない。


いずれにしても、橋杭岩は、ジオサイトの中でも、飛びっ切りの目玉となるサイトだろう。この場所から、いろいろな情報を読み取ることは、大いに注目されることで、やりがいのあることに違いない。