江須崎の博物誌

前回の橋杭岩に続いて、串本海中公園のレストランで昼食をとり、その後すさみ町の江須崎へ行った。ここでは、植物群落として国の天然記念物に指定されていることが強調されて、地質のことは、ほとんど説明されなかった。それで、〈石ころ百話〉としては〈番外編〉となるが、この地の博物誌を考えてみたい。




串本海中公園での昼食は、海鮮丼に海鮮鍋ということだった。1050円ということだから、まあこんなものなのだろう。鍋のブラックタイガーに、魚ハンバーグ?は、別に串本ということでもないだろうが、丼ぶりは、マグロとアジの漬けになっていた(鮮度がイマイチだったが)。





島の入り口までは、大型の観光バスでは行けないということで、「エビとカニの水族館」の前のところから、「日本童謡の園」を通って、島の方へ降りていった。

バスが駐車したところに、フェニックスの先端部分が枯れたものがあり、この地方で話題になっているゾウムシの仲間による食害ではないかと想像した。帰って調べてみたら、まさにこの場所のことが新聞記事になっていた。ヤシオオオサゾウムシという種類らしくて、その写真は Google の画像検索でも簡単に見つかる。今年の2月に記事になって、他の木に広がらないように、枯死したものは伐採するとのことだったが、かなりの株数が残っていたから、大きくて、伐採するのも大変なのだろうか。フェニックスを植えて、南国ムードを盛り上げることは、ある時期に流行ったのだろうが、この地方の本来の自然からはかけ離れたものだろうから、この機会に間引くことも悪くはないと思える。

以前、この駐車場には、多数の野良猫がいて、しかも皮膚病が蔓延したりしていた。また、人がほとんどいない中に、童謡の音楽だけが鳴り響いていたりして、B級スポットということで取り上げられたりしていた。せっかくの第一級の自然と景色がありながら、人が余計な手を加えることで、却って値打ちを落とすことになっていた。




江須崎そのものは、国の天然記念物だから、自然のままに残されているはずだが、周遊道路が作られて、森林荒廃が進んだことがあったらしい。残っているコンクリートの道路は、それほど幅広いものではないが、それでも、光の当たり方や、風の通り方が変化することで、原生林に大きな影響を及ぼしたに違いない。森が一体であり、部分をいじくることで、全体が大きな影響を受けたということで、この教訓は語り継ぐべきだろう。





今回の観察会では、植物の専門家はいなかったようだが、参加者のそれぞれが知っている植物のことを語るだけでも、次々と見るべきものに出会えた。マツバラン、シイ(スダジイだったかしら)、ハカマカズラ(上の看板ではハマカズラと誤記されている)をはじめとするつる植物、センリョウやマンリョウウラシマソウの赤い実が目立っていた。



また、ツワブキの花で、他のものと少し花びらの感じが違うものが見つかった。これも帰ってから調べてみると、いつもの岡山理科大学植物雑学事典に、ツワブキは「古くから庭園などに植栽され、斑入りや小型の品種が作出されている」らしい。ここの集団に元々多型があったのか、それとも外部から遺伝子が持ち込まれたのだろうか。

もし植物の専門家が来ていれば、説明をするのに、いくら時間があっても足りないということになっただろう。


地質の説明がなかったので、帰ってから、あれこれ考えてみた。まず、江須崎の島は、半島のように出っ張っていて、道路からも結構目立って見える。そう考え始めると、島の地質学的な背景も気になってくる。場所からして、牟婁層群になるのだろうが、やや小高い丘になっているのは、海岸段丘として隆起したのだろうか。陸繋島だと説明しているものもあったが、実際に島と陸の接続部は、岩礁になっていて、狭い水道もあったりするから、島陰に砂が堆積したという本来の陸繋島ではないのではないか。

〈江須崎 地質〉などの語句で検索をしてみると、意外と地質学的な説明に辿りつけない。一応、ジオサイト候補の83カ所(PDF)には選ばれているようだが、和歌山県レッドデータブックの「地形・地質 」(PDF)ではDランク〈地域的(市町村単位)に貴重なもの〉ということで、地質学的にはあまり高く評価されていないようだ。

検索をしていると、江須崎で水晶を見つけたという記事があった。それで思い出したのは、私も以前にここの海岸を歩いていて、水晶があるのを教えてもらったことがあった。たしか、少し持ち帰ったと思うのだが、見つからない。見つかれば、追記したい。当時から、堆積岩地帯の中で、どのようにして水晶が結晶するのかと思ったりしたものだった。今回、牟婁層群が、深い所で堆積して、付加体となったことを学んだことからすると、そのときに変形や圧力を受けて、結晶化したのだろうか。


「日本童謡の園」の通り道に、以下のような石碑があった。1971年11月7日に皇太子夫妻(現天皇)が、この場所を訪問されたらしい。行啓というのは皇后や皇太子などの外出を意味し、行幸天皇にのみ用いられるらしい。この日が、どういう日だったのか調べてみると、和歌山国体に続いて、身体障害者スポーツ大会というのがあり、それに出席された後に、南紀一帯を視察されたらしい。ちょうど今和歌山県では、2015年に国体が開かれるということで、それに向けて、競技場を整備したり、高速道路を江住まで延伸する工事を行っている。改めて、なぜこの場所に立ち寄ってもらって、なにを見てもらいたいと思ったのか、思い起こして見るべきだろう。それは、江須崎であり、枯木灘の風景ではなかったか。





ついでに、この石碑は、どのような岩石で造られているのだろうか。一見すると、ありきたりの花崗岩のように見えるが、この地方の石では、石碑に向いていないのだろうか。台座の石と比べて少し違和感を感じる。近くの民家では、熊野酸性岩の石英斑岩が、生け垣の縁取りに使われていた。こんなことを気にするのも、ジオサイト見学会に参加したからだろう。


ジオパークということで、地域の自然の意味を考えることは素晴らしいことだと思う。しかし、トップダウンで指定するだけでは根付かないだろう。江須崎は、地質学的な重要性は低いのかも知れないが、あらゆる博物学(自然史)的な情報をつなげていくことで、素晴らしさが浮かび上がってくるのではないか。これまでは、配慮の欠けた人工的なものを造っては、すぐに古びて、なんとなく荒れ果てた印象となって、残念に思っていた。ジオサイトを契機に、本来の自然の素晴らしさを再確認して、次世代に引き継いで行ってもらいたいと思う。


(2013/12/23 追記):江須崎の水晶
上で触れた水晶、家の中を探して、見つかった。2003年5月に江須崎周辺で生物の観察会があったときに、採集したようだ。くっついている部分は砂岩で、地層の空洞のところに結晶したように思える。上の文章で、牟婁層群が付加体となるときに、圧力や熱がかかったのだと想像したが、和歌山県レッドデータブックの江須崎の説明は以下のようになっている。

標高38mの島が陸繋島になっている。牟婁層群三尾川累層の砂岩および砂岩泥岩互層からなる。崎の付け根の所に弧状岩脈が貫入している

この弧状岩脈は、おそらく枯木灘弧状岩脈の一部なのだろう。このことから、単なる地層の変形ではなく、火山活動に伴ってこの水晶が形成されたと考えれば、納得がいく。もちろん、細かな過程については、相変わらずよくわからないのだが…