南方熊楠の「十二支考」の読み方

十二支考を読んでいるのだが、なかなか難しい、しかしおもしろい。この本は、10年以上前に、たぶん岩波文庫になってすぐに買ったのだが、少しだけ読んだ形跡があって、その後は放り出していた。おそらく、熊楠の主著だからということで読みかけたものの、その内容に圧倒されたか次から次へと出てくる逸話に辟易したのだろう。10年前の私では、とても読めなかったものと思う。


これは、他の人でも同様だったようで、岩波文庫の解説にしても、手元にある「南方熊楠を知る事典」や鶴見和子の「南方熊楠」にしても、その縦横無尽の知識の羅列に、戸惑っているように見える。


鶴見和子がいくつかのキーワードを挙げているが、次から次へといろいろな話が「生成」して行って羅列され、古今東西で「比較」され、そしてその中から「萃点」のようなものが見える、ということらしい。ところが、このような記述の展開が、情報の提示−分析−結論というような、現在の論文の書き方とはかけ離れているから、だらだら思いつきの引用を並べられ、いったい結論は何なのか?ということで、なかなかつき合いきれないのだろう。だから、上記の本の解説でも、なんとなく結論めいたものが読み取れるところを引用して、お茶を濁している感もある。


「生成」ということ自体、なにか一貫した方針でなされているわけではない。昔、大きな紙一面に細かな文字がびっしりと書き込まれた熊楠のメモを見たことがあるが、あのようなメモをつくったのだろうか。ある干支の動物について、古今東西の文献から引用するのだが、その間に、思いつきの事柄や、サービス精神で冗談も交えたりするから、「萃点」など、とても見えてこない。でも、それにしては、その引用された文献の広範さには圧倒されるし、現在の学問から見ても、なにか萌芽的なことを言っているような気がして、なんとかして、なにかを読み取ろうという気になってくるのだろう。ちょうど、現在の生物学者が、なにかというと Darwin を引用するようなものか。


今回私がこの本を読み始めたきっかけは、家畜のことから、十二支に興味をもち、そのことについて、熊楠がどのようなことを言っているのかだった。しかし、当然のことながら、この本はそのようなまとまった知識を提供するような本ではない。


むしろ楽しむべきは、それぞれの文章を書いたときの熊楠の思考の過程を、素直に感じ取るべきなのだろう。そして、そこから自分なりに読み取れたこと、“共感”するところを展開して行くべきなのだろう。熊楠という巨人が、その年の干支にからめて、情報を吐き出した。その過程は、今の科学でいうような体系だった知識でも、体系に納まる知識でもない。だから、そこに記述してある個別の事項を知ったからどうなるものでもない。むしろ、それらを、自分がどう読み取り、生かすかである。


「萃点」というものは、まだよくわからないのだが、どうも多くの人はこの言葉に騙されているようにも思う。その言葉を絶えず意識して、文章を書いた訳ではないだろう。熊楠が提示したものの全体の広がりのなかから、忽然と浮かび上がってくるものだろうか。


しばらく、南方熊楠のことを考えてみたい。

  
(追記:2018/10/28)
 「十二支考の読み方」といった単語で検索をしてみると、どういう基準によるものなのか、このページがかなり上位に来る。私のパソコンのキャッシュのせいかとも思って、携帯で検索してみても、ほぼ同様な結果になるようだ。

 十年以上も前に、熊楠のことをよく知らなかった時期に書いたものが、未だに検索の上位に来ることで読まれるのは、少し恥ずかしい。この十年あまりの間に、私の熊楠に関する知識も増えたから、なにも知らない時期に書いた怖いもの知らずの文章に思える。十二支考にそれなりに向き合った人たちは、こんな十二支考のことを大上段に論じるような文章は書かないのだろう。

それでも、改めて大幅に訂正するようなこともないと思うのは、この文章自体が、十二支考の内容にまで踏みこむことなく、一般的なことを書いているだけだからだろう。また「読み方」と言いつつ、具体的な方法にも触れていない。

別のブログで、「十二支考の読み方」について、一連の文章を書いているので、そっちも時間があれば、読んでみてください。