「いつ贋作か――贋作の記号学メモ」の感想

いつも勉強させてもらっている「現在思想のために」というブログで、「いつ贋作か――贋作の記号学メモ」という一連の記事が目についた。おそらく、この記事は以前にも読んだ気がするのだが、少し前に「パースのレプリカと博物館のレプリカ」という記事を書いた後なので、より興味を惹かれて読んだ。

絵の贋作にまつわることについて、いろいろなことに触れてあって、例によってすべてのことを理解したわけではないのだが、今回は全般的なところで気がついたことを書き留めておきたい。


なによりも不思議に思ったことは、パースの記号論について、まったく触れていないことである。贋作は本物に対する記号だろうし、作品と作者は隣接関係にあるものだろう。ブログの他のところでは、パースのことをいっぱい触れられているのに、ここでパースを持ち出さないことは、なんとも不思議である。


シリーズの6回目の「贋作の「鑑定」」という記事で、以下のようなことが書かれている。

 真作というふれこみの画像を贋作だとする「鑑定」はどのような手続きでなされるのか。一般に「鑑定」が依拠する原理をネルソン・グッドマンは次のように定式化している。「[ある作品が]本物かどうかを確かめる唯一の方法は、それが[真実の作者が描いた]真作であるという歴史的事実を立証することである。」この原理を以後鑑定のための《歴史的基準》と呼ぶことにしよう。

「[真実の作者が描いた]真作であるという歴史的事実」ということは、作者と真作が隣接関係にあるということだろうから、作品は作者につながるインデックスである。ついでに、そういう隣接関係があるからこそ、「あの美術館はピカソが充実している」などと、メトニミーで使われたりする。

一方、贋作は?というのが、今回の文章で論じたいことである。本物がインデックスであって、贋作はインデックスでないということは、当り前のようでいて、重要なポイントになるだろう。たしかに、贋作は作者との隣接関係がないものだろう。

そうすると、アイコンだろうか? アイコンは、非常に精巧なものだとしても、最初から模造(ニセモノ)が意識されたものだろう(例えば、行ったことはないが、この“美術館”の展示品のような)。

それならば、シンボルだろうか? シンボル(=名辞的象徴記号 331)の場合は、解釈が少し複雑である。贋作自体は個物であるから、シンボルから解釈される性質(類似的法則記号 (311))を反映したレプリカということになるようだ。このレプリカは、特殊な種類(a peculiar kind)のインデックスである。あるいは退化したインデックスというものだろう。つまり、真正のインデックスならば、作品と作者との間の隣接関係のように、個物と個物の関係になっているが、贋作(レプリカ)の場合は、シンボルが想起させる一般概念と参照関係になっている。


ここまで考えて来て、真作と作者が隣接関係にあり、贋作と作者が隣接関係にないということは、「作者が実際にその絵を描いたかどうかの歴史的事実」を単に言い換えたに過ぎないことに気がつく。つまり、本物か贋作かを定義すること自体は、簡単なことなのである。しかし、実際に鑑定する段になると、実物を前にして、どのように判定するのか難しい状況がいろいろあるのだろう。だからこそ、上記のブログの一連の文章で、あのように長々と論じられることになる。

パースの記号論に従って解釈することは、問題点をより明瞭にするものと思われる。真正のインデックスが個物と個物との関係であるとするならば、作者が完成させた時点から、作品は個物としての変遷を経ることになる。作品のオリジナルさや同一性の問題などは、実は個物に関する問題だろう。一方、贋作がレプリカであるとみなすことは、贋作がタイプや一般的なことと対比させられていることが見えてくる。

以上で考えたことを踏まえて、改めてブログの一連の文章を読み返してみようと思う。


(2011/09/15 追記):

「いつ贋作か――贋作の記号学メモ」の一連の文章を読み返していると、その1011回目にかけて、ピカソのスタイルの同一性が問題になっている。

上の文章で、インデックスの隣接関係は、個物と個物の関係であると述べた。そのピカソに関する文章でも「作品の存在論的身分が〈個体〉(individual)である点」について触れられている。しかし、その隣接関係の捉え方は、どこか生ぬるいように思える。

例えば、《闘牛》と《泣く女》がたとえ同じスタイルを具現していたとしても、それぞれの絵は、別々の個物であり、ピカソとは別々の隣接関係を持っていたことになる。それぞれの絵を描いたときのピカソは、時間的にも感情的にも違っていたはずである。スタイルという単語はよく理解出来ないのだが、任意の個体から、なにか特徴を抽出するのは、どこかタイポロジカルな感じがする。

もちろん、ピカソという個人は生涯全体としてつながっており、それぞれの時期に、個別の隣接関係の中から、作品を生み出したことになる。だから、作品同士は、直接的な隣接関係を持っていたわけではなく、ピカソを介して隣接関係を持っていたことになる。だから、作品群だけを眺めて、なんらかの本質や同一性を見つけようとしても実りのないことなのだろう。むしろ、ピカソ自身が個物であることに注目して、その一生の連続性の中で、隣接関係の連なりとそのインデックスを読み取ることが重要なのだと思える。

おそらく、有能なピカソの鑑定人ならば、そのようなピカソの生涯の変遷の中から、インデックスを読み取って、活用しているに違いない。


(2011/09/21 追記):
グッドマンの「世界制作の方法」を読み始めているが、その4章は「いつ藝術なのか」となっているから、どうやら、上に引用したブログの文章は、そのモジリらしい。その文脈に即するならば、あるものが贋作であったり、なかったりすることに対して、「あるものが贋作であるのはいかなる場合なのか」を問うことらしい。実は、グッドマンの記号論についてまったく知らないで、上のブログの文章の感想を書いていたことになる。例によって、誤解に基づいて“感想”を書いていたことになるが、それでも、グッドマンの趣旨が、藝術として成り立つ記号機能を問うことならば、そのことがパースの記号論とどう関わるのかを知りたいところである。そのことは、自分で考えるしかないようだ。