ハッサク(八朔)

昨日、産直の店で、ハッサクを買ってきた。




(2013/02/12 撮影)

ハッサクはあまり人気がないのか、なるべく大きなものを選んだが、それでも3個入って150円だった。最近いろいろ出てきた晩柑類に比べると、皮がむきにくくて、手に汁がついたり、独特の苦味があったりして、食べにくいこともあるのだろう。品種としては、少し古びて来ているように思っていた。

ところが、昨年、妻の親類や知り合いからもらったものを食べて、ハッサクをかなり見直した。丁寧に作られたものは、やはりそれなりに美味しくて、ハッサク独特の風味も捨て難いようだ。


ハッサクは、広島県因島が発祥の地であることは、その近くに住んでいたことがあったので、当時から知っていた。でも、因島に渡る機会はそんなになかったので、原木があったところへは行ったことがない。Wikipediaハッサクの記述の中で、因島にハッサクが生じた理由として「東南アジアまで勢力を広げ活躍した村上水軍が、遠征先から苗木や果実を持ち帰ったことも考えられる」という説明に妙に納得した。


さらに、Wikipedia にある以下の記述にも、大いに興味を惹かれた。

1910年(明治43年)、柑橘学の世界的権威W.T.スウィングル博士(January 8, 1871–January 19, 1952)が、「かいよう病(柑橘の病気)が日本に原生していたものかどうか」を調査するため、田中長三郎博士の案内で因島を訪れた。

スウィングル博士に田中長三郎というのは、南方熊楠と関係のあった人物として名前に聞き覚えがある。それで調べてみると、二人が熊楠のところを訪れたのは、別の時期の1915年5月らしい。かねてより文通などでも、熊楠に渡米するように要請していたのだが、熊楠が断ったというのは、有名な話だろう。また、田辺湾の神島なども訪問したようだ。

そうすると、前に紹介した安藤みかんを、スウィングルに見せたのかどうかは気になるところである。白井光太郎への手紙でスウィングルに見せたことに言及しているらしいのだが、今も残っている旧邸に住み始めたのが1916年だから、それならばどこのミカンの木を見せたのかとなって、そのあたりの前後関係はよく調べる必要がありそうだ。


単にハッサクのことを調べているつもりだったのに、思いがけずに、いろいろなことがつながってきたようだ。


(2013/02/16 追記):スウィングルと田中長三郎という人物は、調べ始めるといろいろなことにつながって来るようだ。

まず、因島を訪問したことについては、「因島柑橘史」というページに大判の写真が載っている。そこに立ち会っている人物がそれぞれ誰かはわからないが、スウィングルについては真ん中左寄りの人物だろう。

スウィングルと南方熊楠の手紙のやりとりについては、松居竜五さんがまとめられたものとして、「南方熊楠宛スウィングル書簡について」、「資料紹介 : 南方熊楠宛スウィングル書簡」が、ネットでも読める。熊楠自身、スウィングルから招請があったことをいろいろな場面で利用しているところもあるようだが、スウィングルの側からも、その招請の背景を理解する必要があるだろう。

田中長三郎についても、後に南方の植物学研究所の設立に中心的に関わっていたらしい。さらに、台湾とも関わりがあり、戦後もミカン栽培や栽培植物のことに指導的な立場であったらしい。「熊楠研究」第二号第四号にも、川島昭夫「田中長三郎書簡と『南方植物研究所』」などの論文があるようだから、そのあたりから理解して行きたい。


安藤みかんのことについては、安藤みかんのところで触れる。