「パースの記号分類」をいくつかの例に適用

先に、パースの記号の十のクラスについて触れたので、実際の例でどのようにあてはまるのかを考えている。ここでは、前にも取り上げた菅野氏の「現在思想のために」というブログにある「『記号の分類学』から『記号機能分析』」という記事で扱われたものを、実例として取り上げたい。

その記事では、“純粋な記号タイプ”がないということで、同じ記号が、アイコンやインデックスやシンボルに解釈されることが説明されている。そのことについては、まったく異論はないのだが、単なるアイコン・インデックス・シンボルの区別だけでなく、先の十のクラス分けを適用することで、見えてくることを考えてみたい。さらに、私としては、インデックスおよび隣接関係に対するこだわりがある。どのような場合にインデックスになるのか、その詳細を考えてみたい。

その記事で取り上げられている実例は、アルコール温度計、アメリカの国旗である星条旗、そしてメキシコの博物館に展示されていたという「アルバロ・オブレゴン将軍の腕」である。私の取り上げ方といかに違っているかを比較するためにも、ぜひ元の記事も読んでください。

アルコール温度計は、通常の意味では、インデックスの例として挙げられる。つまり、目の前にあるアルコール温度計は、「命題的(指標的)単一記号(222)」であり、その測定部位の周囲の温度(気温や水温など)に応じて(隣接関係になって)、目盛りの数字を示すものだろう。その目盛り自体も、摂氏や華氏の違いはあったとしても、基準となる目盛りと対応して、隣接関係となっているのだろう。さらに、基準となる目盛り自体は、「命題的指標的法則記号(322)」になるだろうか。そして、個々の温度計は、そのレプリカということになる。

もちろん、そこにシンボル性を見出そうとすれば、「真夏日」という例だけでなく、氷点やら沸点やら、特定の目盛りに意味を持たせることも出来るだろう。つまり「名辞的象徴記号(331)」となることである。さらにそこに、現場での測定などの判断を加えるような場合には、「命題的象徴記号(332)」となるだろう。

アイコン性の場合は、アルコール自体の熱による伸び縮みする性質は「性質記号(111)」だろうし、ガラスのチューブの中で、アルコールが熱に応じて伸び縮みするのが見えるようになれば、「類似的単一記号(211)」ということだろう。


星条旗の場合は、少し複雑である。国旗は、通常はシンボルと見なされるのではないか。つまり、国家の意義や歴史などのいろいろなものを体現したものだろう。だから、「名辞的象徴記号(331)」ということだろう。さらに、国旗に対して何らかの態度や行動を要求されるのならば、「命題的象徴記号(332)」ということになるだろう。国旗が日本において厄介なのは、なにを象徴しているかが人によって違っているからだろう。そして、為政者などの権力者が、自分の勝手な思いを押し付けている。

個々の個人が個別に向き合う国旗は、単純には「名辞的指標的単一記号(221)」だろう。ところが、それに強制がともなったりするのは、シンボル(=法則記号)のレプリカだからだろう。一方で、騎兵隊で突撃の方向を示す星条旗は、隊長がもっている(隣接関係にある) the flag であり、それが指し示す方向は、まさに真正の「命題的(指標的)単一記号(222)」ということだろう。

国旗を分析して、そこにアイコンを見出すことは容易なことだろう。星条旗の星や条が州を表したり、日の丸が太陽を示すのは、「類似的単一記号(211)」だろうし、その“原版”のようなものは、「類似的法則記号(311)」ということだろう。


「オブレゴン将軍の腕」は、単純に考えれば、「名辞的指標的単一記号(221)」以外にあり得ないだろう。部分と全体の関係で、その腕が将軍自身を思い浮かばせることになる。ところが、おそらくは将軍が生きたメキシコの時代や歴史と結びついて、「名辞的象徴記号(331)」となっていたのだろう。一方、作家ガルシア・マルケスが「別の腕を持ってきてこれに替えても変わりはあるまい」と述べたことの眼目は、腕ならばなんでもいいということで、アイコン(つまりは「類似的単一記号(211)」)に貶めたことにあるのだろう。

同様に、フェティシュ(fetish)についても、足やら指やらの体のある部分や、また衣類などに特別な性的魅惑を感じるというのなら、部分と全体との隣接関係で、「名辞的指標的単一記号(221)」ということだろう。そして、そこに隣接関係性が薄れていくと、「類似的単一記号(211)」となって、倒錯的ということになるのだろう。


以上のパースの十のクラスへの当てはめは、いかにも形式的と思えるかも知れない。実際、どのクラスに当てはめるかで、悩むこともないではない。しかし、ここでの目的は、きっちりと分類できるかどうかにあるのではない。むしろ、クラス間の推移に注目することで、同じ記号がアイコン・インデックス・シンボルのいずれかに解釈されることの文脈や背景をすっきりと読み取ることができることである。上のブログで菅野さんは「<記号の分類学>という問題設定そのものが――純粋な記号の存在を前提しているかぎり――誤りだ」と述べておられるが、パースの真意を捉え損ねているように思える。