左と右2:動物のこと

先に述べたような左右の方向性を理解することに関して、私自身、“勘”が悪いとずっと思って来た。子供の頃から、左利きということもあって、多数派の人とは動きが違うこともあったし、私の両親も、右と左についてきちんと教えてくれなかったように思う。それで、学校に入って、左右を指示されるときに、非常に緊張したことを覚えている。特に、「向かって右」などという表現が、わからなかった。

生物学を学び始めたときにも、生物の体を観察する際に、左右性の理解が非常に悪かった。巻貝の巻き方や、二枚貝の右殻左殻もそうだったが、ウニのプルテウス幼生やホヤの体などから、左右の方向性を読み取ることなどは、簡単には理解できなかった。つまり、どういう方向からどういう立場で見るかで、すぐに混乱してしまったのだと思う。ところが、私なりに整理したり、納得したことを、他人に確認をすると、即座に理解してしまう人がいて、ますます自分の勘の悪さを痛感した。

それで、なんらかの生物のことを考えるときに、けっこう意識して左右を識別するようにしている。どれが前後で背腹でと考えながら、自分の体をそこに当てはめたつもりで、左右を考える。


ところで、動物には、左右がないものがいる。放射相称といわれる動物で、クラゲやイソギンチャクのような刺胞動物や、ヒトデやウニなどの棘皮動物などである。これらの動物は、どの方向にも動けたり、どの方向から流れてくる餌にも対応したり出来るように、左右対称の軸を作らないことを選択した動物群なのだろう。

ところが、これらの動物にも、どこかで方向性が決められることがあって、左右が区別出来ることがある。いわゆる二放射相称といわれるものである。考えてみれば、メインの体を作る部分では、放射相称を強調したが、それ以外の部分では、左右を分ける軸が形成されてしまったということだろうか。そうすると、放射相称の動物に、なぜ左右相称が現れるのか?を考えることによって、左右の意義が改めて見えてくるのではないか。


このところ考えてきたことは、左と右という方向性自体が、メタファーではないかということだった。世の中には、左と右と呼べるような方向性があふれている。それらは、整合的に理解できるものもあるが、どちらを右と呼ぶかは、単なる取り決めや視点による場合もあるのではないか。

子供の頃から、左右のことは、鬼門だった。ドン臭くて、理解の悪かったことが、未だにこんなこと考えることになっているようだ。