左と右

先に、フジの巻き方のところで、右巻き左巻きが問題になった。植物の蔓の巻き方について、日本の植物学の世界だけは、牧野富太郎の影響のためか、普通とは逆の呼び方をしていた時期があったらしい。もちろん、二つの巻き方を識別していることでは変りなく、問題なのは、どのように呼ぶのかということと、他の分野との整合性をどうつけるかということだろう。


ところで、これまでこのブログで述べて来たことからすると、左と右という呼び方自体が、メタファーではないだろうか。世の中のなんらかのものを取り上げれば、両側に広がったものとして二つの方向性があるだろうし、横向きに並んだどちらかを右と呼ぶことになれば、他方は左と呼ぶことになるだろう。もっとも確信のある(親しみのある)ものについて右と左を定めて、それとの整合性のある対応を考えたものが、左と右という方向性でないか。ついでに、このような右と左が相対して並んでいるのは、メトニミーでいう隣接関係だろう。

もちろん、こんなことは、既に誰かが考えていそうなものだろうと思うが、ネットを検索してもぴったりするものに出会えなかったので、例によって、粗雑な思い込みを書いておく。


右や左の辞書的な定義では、左について、「時計の文字盤に向かった時に、七時から十一時までの表示の有る側、「明」という漢字の「日」が書かれている側(新明解国語辞典)」とか、「南を向いたとき、東にあたる方(広辞苑)」などと書かれている。それも、見る方向や立場を替えれば、逆になるわけだから、右とか左とかいうのは、単なる呼び方だけの問題だろう。

ところが、人間の体に左右があって(例えば、大部分のヒトでは心臓のある側のように)、そして、自然物にも空間にも方向があって(例えば、太陽が登って、沈んで行く方向のように)、そのような方向性を整合的に理解していくものとして、左や右という呼び方を対応させていったものと思われる。それは、方向性に直接関わるメタファーもあるだろうし、方向性の意味からは転化したメタファーらしいメタファーもあるだろう。いずれにしても、そのような左右にかかわるメタファーの“体系”を個々の言語は受け継いでいるのだろう。


しばらく前に、岩波新書の今井むつみ「ことばと思考」という本を読みかけた。途中で投げ出したから、感想は書かないが、そこでも左右のことが出てくる。世界の言語の中には、「左」「右」に相当することばをまったく持たないものがあるらしい。そういう場合には、東西南北のような絶対方位を用いたり、また別の相対的な用語を使ったりするらしい。

結局、なにを基準にするかは別にして、世界の中に横向きの方向性があって、それをヒトが認識しているという点では普遍性があるのだろうし、その切り分け方としての「メタファーの体系」が違っていることで、言語の多様性ということになるのだろう。


ここまで考えてみると、ヒトの身体に方向性があって、そこから内へ向かって行くものとして心理学や神経科学などがあって、外へ向かって行くものとして、空間のメタファーがあるのだろうか。

このあたりのことを、これから追々と勉強して行きたい。



(2010/12/08 追記):
右と左の象徴的意味(メタファーの体系)について、以下のような論文がネットで見つかった。
田中彰吾. 2008. 空間象徴の理論的基礎づけ――身体性の観点から. 東海大学総合教育センター紀要,第28号,1-14.


(2010/12/10 追記):
以下の論文でも、右と左について意味が拡張していくことが書かれている。そこでは、Lakoff and Johnson (1980) を引用して、日常の身体経験から直接理解される概念と、身体経験から直接的に理解されるのではなく、メタファーやメトニミーによって「あらわれ出る概念」やその他の概念に関連づけられて理解される概念とを分けている。私が上で述べたことは、右と左が、身体経験から直接理解される概念であったとしても、あらゆるものに右と左を当てはめること自体が、メタファーではないかというものである。

松井真人. 2009. 英語と日本語における<右>と<左>に関する語彙の意味拡張について. 山形県立米沢女子短期大学紀要, 45: 65-73. (PDF