「象は鼻が長い」とメトニミー

「象は鼻が長い」は、日本語について興味をもったことのある人なら、必ず出会う表現だろう。日本語の主語や「は」という助詞の意義など、これまでいろいろな観点から論じられて来たに違いない。ここでは、そのようなことの詳細にふれるのではなく、このブログでこのところ論じて来た比喩との関連で考えてみたい。

「象は鼻が長い」は、象という全体に、鼻という部分が長いということだから、メトニミーを構成する全体と部分の関係となるだろう。同様に、「花は桜が一番だ」ということなら、シネクドキを構成するクラスとメンバーの包摂関係を示していることになるだろう。

おそらく、「象は鼻が長い」という表現の有名さからみて、「XはYがZである」のあらゆるX, Y, Zの場合について、誰かが分析しているに違いない(例えば、「「〜は〜が〜」構文について」というサイト)。しかし、ここでは、XとYの関係にしぼって考えてみたい。これは、「シネクドキ(提喩)の位置づけ - ebikusuの博物誌」から始まる一連の議論とも関連している。


これまで、このブログで主張して来たことは、メトニミーにおける「象」と「鼻」は一体であるということであり、一方、シネクドキにおける「花」と「桜」は、どのような桜であるかは問わないということである。つまり、目の前の象や写真の象を指して、その鼻が長いということが、メトニミーでいう隣接関係であり、花という集合があって、そのメンバーである桜であれば、どこの公園の桜でも、今年の桜でも来年の桜でも当てはまるのが、シネクドキでいう包摂関係である。

もちろん、「象は鼻が長い」の場合に、あらゆる象は鼻が長いものだ、と受け取る人も多いに違いない。つまり、実例や経験から帰納的に、象という動物は鼻が長いと判断するようになるのだろう。メトニミーから“本質”へと飛躍するのは、このような場合だろうか。しかし、進化を学べば、鼻が長くない象から、鼻が長い象が進化したことを考えられるようになるだろう。あるいは発生過程をたどれば、受精卵や胎児の時期には、もちろん鼻が長いわけではないだろう。いずれにしても、あらゆる象の鼻が長いわけではないにも関わらず、特定の象の個体とその鼻に基づいて、「象は鼻が長い」と断定していることが重要なのである。*1

「XはYがZである」において、XとYの関係を考えることは、日本語を使っている人たちが、メトニミーやシネクドキの元になる隣接関係や包摂関係などをどのように捉えているか考察するうえで、絶好の対象であると思われる。しばらく、このことを考えてみたい。

*1:2010/03/12 追記:後の方の「「象は鼻が長い」とメトニミー7」で、XとYのいろいろな組み合わせを考えたことからすると、「象は鼻が長い」ということが、あらゆる象に当てはまると考えるのは、その象が、目の前の象ではなく、クラスとしての象(鼻が長いという内包を持った)として捉えられていると、解釈するべきだった。普通の人の「自然類」の捉え方はそのようなものだろう。あらゆる象は必ずしも鼻が長い訳ではないという発想は、ゾウという系統群を、個物として捉える発想である。