路傍百種の中間報告:ウラニワーズ宣言

上のノコンギクで、「路傍百種−自宅の生物編」のタイトルとして取り上げた種類が50種になった(そのリストは右上にある「記事一覧」参照)。百種までには未だ道半ばではあるが、この辺りで“中間報告”をしてみたい。

総計50種の内訳は、植物27種、昆虫21種、甲殻類・クモ類各1種である。植物と動物がほぼ半々になっているのは、かなり意識的に動物を取り上げたことにもよる。数を稼ぐだけなら、植物はじっとしているので写真も撮り易いが、これまで見過ごして来た昆虫を知る機会にしようと思ったからである。おそらく、これから冬に向かうにつれて、動物を見る機会は減って行くことだろうが…。ちなみに、このブログで取り上げなければ、未知のもの自信がなかった種類は28種で、半数以上になる。百種を越えたとき1年が回ったときには、さらに詳細な種類や内容の内訳について、分析してみたい。


1年経てば百種を越えるに違いないとは思っていたが、やり始めて2ヶ月足らずで、こんなに種類が記録されるとは思っていなかった。朝目覚めて、仕事へ行くまでの20分程度の散歩のとき、休日の家庭菜園の作業のときに眺めたものをまとめるだけで、次から次へ書きたいことが浮かんで来た。なにかを取り上げれば、それとの関連でまた別のものをという感じだった。

生物の名前を覚えるということは、その生物を通して自然が見えてくることだとは思っていたが、単なる名前だけでなく、その生物にまつわるあらゆる関係を意識することで、これまで見えていなかった世界が見えてきたことを実感している。


この作業をやり始めてすぐに考えたことは、「○○神社の森の生物相」といった報告はいっぱいあるだろうに、「××家の庭の生物相」は意味をなさないのだろうか、ということだった。神社の森には“自然”が残っているが、人の家の庭などは人工的なもので、科学的に報告する意味がないのだろうか。でも、自然とはなんなのか、また、人の手の入っていないところがあるのだろうか、などと問うて見たくなる。

むしろ、自宅の庭は、自分が好きなようにいじれる実験の場所であり、経過を密接に観察できる場所ではないだろうか。自宅の生物に人の手が加わっているということは、その生物の何らかの謂われがわかっているということである。なぜそこに生えているか(いつ誰が植えたか)、耕したり、肥料を入れたり、草刈をしたり(あるものは好みで残したりあるものは駆逐したり)と、そこに加えられたあらゆる影響の総体が、そこの生物に反映されているということである。そのようなことを踏まえたうえで、個々の生物を眺めたときに、なにがわかるのか、ということだろう。

実は、このようなことを最近になって強調し出したのが「里山」の概念だろう。たしかに、まったくの手つかずの自然のままではなく、人間の作用が加わったことを前提にして、自然を見ることは重要なことだろう。ただし、その自然の中に入り込んで、具体的な関係を読み取るようでなければ、単なる流行やノスタルジーで終わってしまうだろう。


また、この作業をやっていて、「ウラニワーズ」という言葉を強く意識した。ウラニワーズというのは、1年ほど前に触れたダーウィン展の解説書の中で、ある学芸員が書いていた文章に出てくる。海外のフィールドや大規模な実験設備によるプロジェクト研究でなくても、身近な裏庭でも面白いテーマが転がっていて、そこで研究する生態学者を「ウラニワーズ」と呼ぶというものである。そしてロンドン郊外のダウンの裏庭で研究したダーウィンもまさにウラニワーズだったというのである。その解説書では、他の学芸員が高尚なテーマでダーウィンのことを論じている中で、ひとり敢えて自分の尺度でダーウィンのことを書いていることに非常に感心したものだった。ただし、今この文章をまとめるために、「ウラニワーズ」で検索をしてみると、ほとんど引っかかってこない。その学芸員自身も、それ以後公的には使っていないみたいで、残念なことだ。

我が家の庭で、土をひっくり返していると、20年ほど前の分譲地造成時に表面に撒いた玉砂利が、土の下から出てくる。まさに、ダーウィンがミミズの作用を調べるために石灰を撒いたようなものである。ダーウィンは、そこから、ちっぽけなミミズが長い年月にわたって陸上の景観形成へ貢献することを、読み取った。我が家の庭で起こっていることは、個別で特殊な出来事だろうが、そこから一般に通じる話を読み取れることだってあるかも知れない。今のところ、我が家の庭の観察は実に楽しい。ウラニワーズを意識しながら続けて行きたい。