「生物の樹・科学の樹」の感想6:全般的なこと

あまり重箱の隅をつつくようなことばかりを書いているようなので、連番を付けた感想はこれで打ち切って、今後は、関連するテーマについて書くときに、引用して述べることにする。まだまだ論じてみたいこともあるが、残りの問題は、かなり勉強しないと、歯が立たないこともある。

例えば、「本質主義物語(The Essentialism Story)」という言葉については、「生物科学」の論文*1ではじめて知ったのだが、Mayr や Hull などが実際に勧善懲悪神話をでっち上げたのかどうかを判断するには、Darwin 以前の分類学のことも、また Mayr 自身が、進化の総合学派の中でどういう役割を果たしたのか、彼の長い生涯全体にわたって理解することも、とても出来そうにない。

この連載の主要テーマが、本質主義にまつわることを告発することであるとするならば、その壮大な見取り図がこの連載で展開されたことになるのだろうから、そのさらなる肉付けを待ってます。

また、弁証法唯物論や徳田御稔やまた Ghiselin なども含めて、「種」を特別なものとみなす人たちの考え方が、どこかでつながっていることが示唆されていたことも、非常に興味深かった。私の何世代か前の人たち(今、70歳代くらいだろうか)が、なぜあれほどまでに「種」を特別扱いしたのかを、解きほぐすカギが与えられたような気がする。

冷戦の終結やらMayr の逝去やら、歴史の見直しの時期に来ているのだろうか。世界の状況や日本の事情なども含めて、分類学史の“闇”が少しでも解明されることを、期待しています。

*1:三中信宏. 2008. 「種」概念の光と闇−概念の分類ではなく、その出自をたどろう. 生物科学, 59: 238-243.