桐野夏生と福岡伸一のクロストークは、ハズレ

1月5日の朝日新聞に、クロストーク桐野夏生さんに、分子生物学福岡伸一さんが聞く」という記事があったが、この記事はインターネットには公開されていないようだ。

「この世にはなぜ女と男がいるのだろう」などと、文学者と生物学者が論じ合うのには格好のテーマであるにもかかわらず、見事に空回りのトークになっている。桐野さんの方からは、男と女にまつわる生物学的に重要な問いかけをされているにもかかわらず、福岡さんの方は、見事に外した応答をしている。

実のところ、ご両人の本は、これまでほとんど読んだことはない。福岡さんの生物に関するいろいろな本が話題になっていることは知ってはいたが、このような対談を見る限り、読む気を失せさせるものだった。分子生物学者だから、生物全般の雄や雌の意味を知らないことはしょうがないことかも知れないが、それでも、身の程をわきまえずにエラそうに出てきたことで、このような実りのない対談になってしまったことは、大いに反省するべきだろう。

人間の男と女を論じるときに、男中心の社会制度の告発になるのは、お約束だろうか。桐野さんも、「男は常に分の悪い方を女に渡してきた」などと述べている。そこでまた、生物学の方からは、生物の知識をつまみ食いして、オスとは?メスとは?と論じることになる。しかし、XY染色体や遺伝子などで語れる雌雄の意義はごくわずかのことだろう。それで、思いつきや言葉足らずの発言を連発している。

ところが桐野さんの方は、そこからさらに進んで、「女は産む性ですから」とか、「女は命をつないでいく、関係性の動物だ」とか、生物学的にも非常に重要な指摘をバンバンしているにかかわらず、そのことの生物学的意味を展開しきれていない。

「女1人と男30人余」のサバイバル物語は小説になっても、「女が30人で男が1人」では小説にならない(私はそうは思わないが)のか?などの問いも、見事に取り逃がしている。

太平洋戦争の末期から戦後直後にかけての南太平洋の島であったり、大奥のようなハーレムの状態であったり、非常に特殊な状況を想定しているようだが、生物界で、性比がオス・メスで1対30であったり、30対1である状況は、いくらでも想定できる。

そのような生物の多様性を踏まえる中で、ヒトの配偶システムとして、女は1人の子供(その父親もまた1人である)しか妊娠できないが、男は何人もの子供を同時に妊娠させることができるという、雌雄の非対称性の意味とともに、社会状況によって、なぜ女系になったり男系社会になったりするのかの意味も見えてくるだろう。

また、なぜ「男の側がマッチョになるのをやめた」のか?や、 なぜ「傷つきたくない」男が増えたのか?なども、生物学的に重要な問いだろう。ところが、マッチョや傷つきたくないという情緒的な言葉だけが踊ることになっている。雄がどのような姿を誇示するか、雌がどのような雄を選ぶかは、性選択の重要なテーマだろう。

「法律の編み目から落ちていくものをどうするか、どう折り合いをつけるか」や、「こぼれ落ちる側の世界をただ提示していくことが面白い」などと、非常に重要な指摘をしている。ところが福岡さんの方は、「対談の余白」という“あとがき”のようなところで、

彼女は何かを主張しようとしたわけではない。ただ世界のふるまいを冷徹に提示しているだけなのだ。あたかも科学者のように。

と、書いているに至っては、そのような“科学者のような冷徹な提示”を、見事に取り逃がした自らのボンクラさへの自覚もないようだ。

福岡さんは、近著「できそこないの男たち」を出しているそうなので、どんな本なのか見に行ってみたら、そこでの書評も見事なほど評判がよくないようだ。さもありなんという感じか。

Amazon.co.jp: できそこないの男たち (光文社新書): 福岡伸一: 本


2009/01/16 追記:この対談が見事にハズレになっているのは、福岡伸一という人が分子生物学者ということもあるのだろうが、発生や遺伝子などの至近要因はわかっても、適応や進化などの究極要因についてわかっていないことがあるのだろう(Tinbergen's four questions - ebikusuの博物誌)。桐野さんが発する「なぜ」という質問に、思いつきの受け答えで終始しているのも、結局、生物学における「なぜ」ということの意味がわかっていないからだろう。