トークンとしての種タクソン

先の「カテゴリーとしての種、タクソンとしての種」という記事に、「系統樹思考の世界」の著者である三中さん本人がトラックバックをつけてくれたので、改めて少し考えてみた。

※ 「カテゴリーとしての種、タクソンとしての種」という記事.集合としてのカテゴリーは定義できますが,その要素であるトークンは定義できませんね.だから個物ということ.同様に,種カテゴリー(種概念)は定義の問題ですんでも,その要素として種タクソンを想定することは単なる定義ではすまない.だから,Ghiselinは種タクソンは個物であるというテーゼを擁護する形而上学を構築したわけです.さらにいえば,種タクソンをもともと想定しないという形而上学もありですね.

種タクソンをトークンだと考えることは、わりと気に入っているのだが、それでいいのだろうか? 「動物分類学30講」の著者のように「タクソンとはクラスであると」という人もいるようなので、誰からも同意してもらえるものとは思っていないのだが。また、トークンという言葉自体、三中さんの本で初めて知った程度なので、タイプ/トークンの区別について誤解していることもあるかもしれない。

種タクソンが定義できないことは、Ghiselin のことに多少なりとも触れた者なら、個物は、定義(define)されるものではなく、記載(describe)されるものであるということで、周知のことだろう。

それで、種タクソンをどのように想定するかについては、直示的に(ostensively)示されるだけなのだろうけれど、直示されたものがどういうものであるかは、それはそれでまた議論があるだろう。

私自身はGhiselin の主張を信奉しているつもり(彼の思想の全体像を理解しているとはとても思わないが)なのだが、三中さんのGhiselin に対する立場がよくわからない。種に対するナイーブな見解に対して、“形而上学”を持ち出すことで煙に巻いているように見えるが、その一方で、Ghiselin の説にも否定的であるようにも受け取れる。「種タクソンをもともと想定しないという形而上学」とはどのようなものなのだろうか?