生物と地球の対比

地球と生物を比べること自体、不思議に思う人がいるかもしれない。私自身も、生物も地球も歴史的存在だとは思ってはいたが、両者の違いについて深く考えたことはなかった。また、歴史的存在ということでは、たぶん哲学的にはいろいろな定義があるのだろうけれど、これもあまり勉強したことはない。

生物も地球も歴史的存在であることには、誰も異存はないだろう。例えば、生物の個体を考えたときに、始まりと終わり(誕生と死亡)があって、その生涯の間に、周囲の環境と関係を持ちながら、いろいろと変わって行く。その個体の一生は、一回限りの出来事であり、また再現不可能だろう。このことは、誰かの一生を想像してみれば、まさに歴史そのものと納得できるだろう。そして、このような意味は、地球にも当てはまるだろう。宇宙の中の太陽系という位置で誕生して、いつかは消えて行く。

もちろん、生物と地球とでは違いも存在する。例えば、地球の歴史の長さは、生物の個体の一生に比べて圧倒的に長いし、地球上の生命の歴史と比べても長い。さらに、地球上に生命が誕生して、無数の個体や種類や分類群が入れ替わりそして進化して来たが、地球は最初から現在まで同じ個体であり、今のところは消滅するわけでもない。

「地球の進化」などと言われるが、生物の意味での進化ではなく、せいぜいが個体発生の意味だろう。「宇宙の進化」となると、星の一生の間で、残るものと残らないもの、分裂や融合などがあるのかも知れないが、生物の系統発生とは違ったものだろう。


以上のことは、あまりにも当たり前すぎることかも知れないが、このことから、生物の進化の意味が、改めて明らかになるだろう。生物の進化は、個体が入れ替わって、個体に親と子供の関係があるから、起こるのである。ダーウィンの自然選択によれば、多くの子供を残す親の特徴が、次の世代以降広がっていくのである。どんな子供が残るのかについては、偶然的なものであれ、「残るものが残る」であれ、とにかく差がつかないことには進化が起こらない。

昨日、海の水はなぜ塩辛いかを考えたときに、Tinbergen's four questions のうち、、究極要因である適応的要因と系統的要因からの説明がつかないことを述べた。適応的要因にしろ系統的要因にしろ、進化を背景にしたものなのだから、進化の起こらない地球上の海洋での出来事に、適用されないのは当然のことだった。



最初に戻って、生物にしろ地球にしろ歴史的存在であることが強調されるのは、両者ともに時間的に変化しているからだろう。地球の歴史を考える地質学において、斉一説と天変地異説としての論争があったらしい。海の水がなぜ塩辛いかについて、川の作用から説明するのは斉一説だろうし、地球の誕生時期のイベントを強調するのは天変地異説だろう。いずれにしても、歴史を考えるうえでは、両者の見方とも重要なことだろう。

以上の対比をするまでもなく、地球の歴史に比べて、生物の歴史は、はるかに複雑なものだろう。ところで、ダーウィンは、斉一説を信奉していて、自然選択説もそこから大いに影響を受けたらしい。ここまで考えてきたことを踏まえて、ダーウィン歴史観を改めて考えてみたくなった。