「なんでやねん?」という問い
フェルミ推定のことを考えていて、ある尊敬する生物学者が言っていた「研究とは?」ということを思い出した。研究の過程は、以下の3つの段階から成り立っているというものである。
なんやろか − なんでやねん − ほんまかいな
これらの各段階については、いろいろ説明も解釈もできるだろうけれど、ここで強調したいことは、今の日本の風潮として、「なんでやねん」と問わなくなっていることである。研究者でさえも、日々の研究競争に忙しいから、根本的な問題を問い直しているヒマなどないということらしい。別に、「なんでやねん」と問わなくても、流行の研究テーマはころがっているし、外国でやられたことを、種類を変えたり、より精密にやったりすれば、それで新知見ということになる。「なんでやねん」と考えないのだから、「ほんまかいな」と問い直すようなこともない。
フェルミ推定などというものがウケているのは、突然提示される問題が荒唐無稽で、なんとかうまいアイデアと組み合わせることで、自分なりに解いてみようと思わせるからだろう。たくみに、「なんでやねん?」と考える方向へと導いているのだろう。
しかし、フェルミ推定で、与えられた問題を解いているだけでは、「ほんまかいな」の段階までは至らないだろう。導き出した結果に対して、なんらかの“考察”をすることが、「ほんまかいな」だろう。
ピアノ調律師の数の見積もりがどのような意味をもつのか。そして、そもそもなんでピアノ調律師の数なんてものを問題にしたのか?を問い直すことである。ノーベル賞のフェルミの問題だとありがたがっているようでは、「ほんまかいな」には行き着かないだろう。