自然博物館における標本の意義

この文章は、先の和歌山県立博物館の特別展解説書を読んでいて考えたことであり、標本に対する私的なメモである。このことは、以前に述べた「本物とはどのようなものか 」「なぜ本物を展示するのか:反「レプリカ礼賛」 」にも通じることでもある。自然博物館における標本の意義については、いろいろな本や解説も出ているようだが、今は特に参照していない。あまりにも当たり前すぎることを書いているかも知れないし、多少の誤解も含んでいるかも知れない。ご意見があればお聞かせください。


先の特別展で気になったことは、多くの人が、生き物には興味を持つが、標本にはあまり興味を持たないということだった。ところが、このことは常にあてはまるわけではないだろう。例えば、何年か前に同じ博物館であったオオカミの標本の展示には、けっこうな数の人が集まっていた。あまり出来が良いとは言えない貧相なぬいぐるみのような標本であったにもかかわらずである。また、同じ博物館で、クジラの骨格標本を展示していたときにも、結構注目されていた。

おそらく、標本によって、見る人にインパクトを与える要素というものがあるのだろう。大きくてびっくりするようなものとか、美しいものとか、稀少なものとか、身近なものとか、そういうものは、目玉の展示物になるのだろう。ところが、展示物全部をそのような受けねらいで埋め尽くすわけにもいかないから、結局は、展示のテーマに沿うように、見栄えのしない標本も並べることになるのだろう。それでも、学芸員の人は、展示の趣旨を理解してもらえるように、説明のパネルを作ったり、模型を使ったり、映像などを併用したりして、いろいろな工夫をしているに違いない。

このような工夫がちょっと変な方向へ向かうと、「レプリカ礼賛」を書いた人のように、本物よりもレプリカの方が優れているかのような意見も出てくるのだろう。実際のところ、自然系の博物館において、なんらかのテーマを説明するのに、実物としての標本を展示することは、大きな比重を占めていないのかも知れない。精巧に作られたジオラマやレプリカや映像や立派なパネルこそが、展示の力の入れどころなのかも知れない。なにしろ、このようなものはお金もかかっているのだろうから。標本をただ単に並べているだけでは、お金も手間ももかけていないと受け取られかねない。

どこの博物館にも「自慢の一品」と呼べるようなものがあるのではないか? それは、他の博物館にはない、その博物館独自のものだろう。例えば、その地域で出土した化石であるとか、その地域にちなんだ生物や、その館の学芸員が直接関わった標本などもそうだろう。水族館ならば、その館が独自に考案した飼育技術に基づく展示などもあるだろう。そういうものの展示には、いくら見栄えが地味であったとしても、説明にも熱がこもるに違いない。もし、そのような一品がないのだとしたら、企画や展示方法でどんなに斬新なことをしていても、中身が空っぽだということになるのではないか。

博物館の学芸員の人たちは、標本の重要性をどれくらい認識しているのだろうか? もちろん個々の博物館や学芸員によりけりだろうが。最近の博物館は、社会教育やら、特別展やら、いろいろな機能が求められて、このような標本を管理したり活用することが、軽んじられているのではないか? あるいはその余裕がないのではないか? 例えば、和歌山県立自然博物館のイベント情報を見ていても、水族館や野外でのイベントが大半となっている。一方、どのようなコレクションを持っているのか、ホームページを探してみてもよくわからない。

標本の重要性を示すことは、学芸員自身が、標本を活用し、その意義を実践の中で示すことだろう。先の特別展の解説書を読んで、欧米の標本や昭和天皇の標本などが、日本人の手によって再調査されていることを知った。シーボルトをはじめとして、19世紀に日本を訪れた人々の採集したものが、未だに残っていることは驚異的だったが、そのような恵まれた状況を単にうらやむだけでは、日本で標本を大切にする姿勢は根付かないだろう。欧米や天皇の権威を借りて来るのではなく、それぞれの博物館がコレクションの充実にどのように関わっていくかが問われているのではないか。

(この項つづく)