田尻町・春日神社

この週末の土曜日に、先に触れた「堺泉州の隠れた名所99」を携えて、泉南のいくつかの場所を訪れて来ました。訪れたのは、永楽ダム−尼津池(道がわからなくて、行き着けず)−泉佐野漁港−春日神社などですが、ここでは春日神社について述べます。


上記の本の春日神社についての記述は、わずか半ページの簡潔なものなのですが、非常に的確なものでした。

まず、田尻町が「江戸時代は吉見藩で、今も田尻町はどことも合併せずに田尻町を貫き通している」との記述から、田尻町の最寄の駅が「吉見の里」であることに合点がいきました。このあたりの南海電車の駅名は、なかなか由緒があるものとかねがね思っていました。

さらに、この神社のまわりには2つの貴重なものがあるとのことで、「タマネギ王の顕彰碑」、それに「出征軍人碑」と「軍人中」灯篭が挙げてありました。どちらも、このガイドブックがなければ見落としてしまうようなものでした。

まず軍人の碑と灯篭ですが、「明治37年38年のもので、小さい町にも与謝野晶子の頃の「戦争」があったのである」と書かれています。明治37年というのは1904年で、まさしく日露戦争が始まったときです。「戦捷祈祷之石塚」と彫られたそんなに大きくもない石碑に、戦争へ駆り出された人々の思いが込められているのでしょう。


泉南地方の神社には多くの忠魂碑が残っていますが、日露戦争の時代に建てられたものには、その地域の人々の思いがこもっていると思います。ところが、1930年あたりからは石碑も立派になって、著名な軍人の揮毫を掲げるようになって、形式化していったように思えます。それから、境内に神馬の台が残っていました。紀元2600年のときに奉納されたようですが、戦争中に金属供出で撤去されたものと想像しました。


次に、タマネギ王の碑です。泉南地方を訪れると、タマネギ小屋がそこらじゅうにあることが当たり前の風景に思っていましたが、そこにもまた歴史があるのでした。写真の部分の漢字が読めなかったのですが、ネットで調べてみると、「泉畑球葱栽培之祖」と書かれているそうです。石碑の文章の要約もここのサイトに載っていました。

このことから、泉南のタマネギのことを調べだすと、いろいろな記事に出会いました。
「泉州黄たまねぎのルーツをさぐる」のページは、阪南市の箱作小学校が作ったらしいのですが、小学生とはとても思えないほどよく調べています。「玉葱王 今井伊太郎とその父佐次平」の著者、畑中加代子さんへのインタビューも載っています。「玉葱王」の本は、「堺泉州の隠れた名所99」にも引用されていますが、自費出版のようで、あまり情報がありません。どこかの図書館ででも探してみたいと思っています。


いろいろなことを考えるきっかけになった「堺泉州の隠れた名所99」による田尻町春日神社訪問でしたが、これには「おまけ」がつきました。神社へ行くときに、車を停めるところがなくて、町の公民館の駐車場に停めさせてもらったのですが、その場所に、以下のようなものがありました。

ボールの大きさで、ジャガイモのようで、土の塊のようで、しかも田尻漁協のかごに入っているので、あれこれ想像をかきたてられたのですが、結局、得体の知れないものとして、写真だけ写して来ました。

その謎が、上記の箱作小学校のホームページで解けました。なにげなく見ていた「石谷池の水質調査」というページに載っている「EMだんご」というのが上の写真とよく似ています。こうなると、EM菌と田尻町で検索をかけて、このページに行き着きました。田尻では「元気玉」と呼んでいるそうです。EM菌の効能についてはよくわかりませんが、とにかく、田尻の人が海や川をきれいにしようと活動していることを、まったく偶然のきっかけから知ることになりました。

先に「泉北見巧者の極意」を引用しました。今回は、それを実践できたでのはないかと思います。そして今まさに、その一項である「感動したらあちこち言いふらすべし」を実行しています。