本物とはどのようなものか

博物館は本物を展示するものだということから、本物とはどのようなものかについて考えてみた。


本物とは「唯一無二」のものだ、というのが、ここでの私の主張である。このことは、今のところ、私の思い込みだから、誰も賛同してくれないかも知れないが、この唯一無二(ユニークさ)の意味について、いろいろ述べてみたい。


芸術などは、まさに唯一無二のものだろう。音楽会などは一回きりの行為だし、絵画なども、例えばピカソが、何年何月頃に描いた絵だと言えば、唯一性は明らかだろう。ところが、同じものがいくつも複製できる場合には、話が複雑になってくる。例えば、版画などは、同じものがいくつも刷られているのだろうし、写真となれば、いくらでも複製できるだろう。オリジナルということは、そのような状況で問われるのかも知れない。


考古学などでも、ある古墳から何らかの遺物が出土したときに、珍しいものであれば誰の埋葬品であるかが大問題になるだろうが、どこにでもありそうな埴輪や鏡や土器などは、あまり唯一無二性を感じないかも知れない。古いお寺の瓦なんて、型枠で作られる訳だから同じものが無数に出土するのだろう。


これは生物でも同様で、同じ種類の生物は、ほぼ同じかたちをしているのだから、どれもこれも同じようなものである。十把一絡げで、アジ100匹、マグロ10匹などと扱われるかも知れない。おそらく水族館の扱いはそんなもので、ジンベエザメともなると、一匹ずつに名前をつけてはいるが、マグロ一匹ずつに名前をつけているようには思えない。動物園は少しはましで、たぶん一個体ずつ個体識別をして、その個体の飼育履歴を残しているのだろう。


ところで、生物で、同種内の多数の個体から、唯一無二性を与えることは簡単である。標本にすればよいのである。生物を標本として残すときに、採集日・採集場所などを最低限の情報としてラベルに書き記すことが、お決まりの作業として行われている。これらの情報によって、新聞で事件を記述するときの5W1Hのように、標本に独自性が与えられるのである。


たぶん、考古学でも同様で、特定の遺跡の特定のところから出土したということだけで、どこにでもあるような遺物(例えば、同じ模様の鏡)であっても、その標本に独自の意味が生じることだろう。


博物館に保管されているものは、標本であり、ユニークなものであるから、次世代に引き継いでいかなければならない。ハコモノを作って終わりではない。絶えず盛り立てていかなければならない。