なぜ本物を展示するのか:反「レプリカ礼賛」

先に紹介した「泉州ミュージアムネットワーク」に「かわら版こらむ」というのがあって、「レプリカ礼讃・レプリカのすすめ」という記事が載っています。たぶん、このコラムは、私が初めて見て以来、まったく変更がされていないので、次に書く人がいないのでしょうか。


これを見て、博物館の人間の発言として正気か?!とかねがね思っていましたので、パロディを作ってみました。


●「なんや、にせものかぁ」:なぜ本物を展示するのか。

「なんでも鑑定団」というTV番組があります。目利きの人が、出品されたものに値段をつけて、その品物の価値を鑑定してくれるというものです。所有者の長年の思い入れとは裏腹に、にせ物であるがために、二束三文の値段しかつかないことがあったり、ときには思いもよらない本物であったり、また、にせ物であっても、なんらかの理由でそれなりの値段がついたり、そんなことで一喜一憂することがおもしろいのでしょう。いずれにしても、目利きの人は、価値を判断するために、本物であるか偽物であるか、見抜かなければなりません。


博物館は、本物を展示するところです。展示の効果を考えて、レプリカを展示することもありますが、本物あってのレプリカです。なぜ本物を展示するのかは、絵画を考えてみれば明らかでしょう。ピカソゴッホの複製画が、どんなに精巧であっても、ありがたいと思わないでしょう。作家の独特な描き方やくせなどは、本物と接することによってのみ読み取れるものです。なによりも、ピカソが描いた絵だからこそ、それを直接見てみたいと思うのでしょう。


もちろん、レプリカにまったく価値がないわけではありません。考古遺物では、出土後の資料の劣化は避けられませんから、出土の時点の記録として、レプリカを残すことは必要です。レプリカを作成する過程で、出土物自体が改めて研究されることにもなります。レプリカからも多くのことを学ぶことができます。しかし、レプリカはしょせんはにせ物です。


それでは、本物とはどんなものでしょうか。考古遺物は、池上曽根といった遺跡から出土します。何千年を経て、その遺跡から見つかった唯一無二のものだから、本物なのです。本物だからこそ、たとえ割れた土器や錆びた金属の破片であっても、そこからいろいろな情報を引き出そうとします。本物だからこそ、歴史を読み解き、何千年前の歴史に肉薄することが出来るのです。その成果は、博物館の展示にも反映されます。本物がなければ、池上曽根の歴史は、なにもわからなかったでしょう。


レプリカに盛り込まれた情報は、本物から引き出された情報のエッセンスでしかありません。レプリカを見て、「なんや、にせものかぁ」と言いたくなる感覚は、博物館で本物を見たいという素直な感覚の表れだと想像します。どの博物館も、これぞと思える本物を持っています。博物館に来て、本物を見てください。