がんばれ博物館
泉州ミュージアムネットワークに載っている博物館の多くには、人々はあまり行かないようだ。私が行った博物館の中には、入場者が他には誰もいなくて、職員の方が、大慌てで電気のスイッチを入れてくれるような場合もあった。
その一方で、「○○展」とか銘打って、マスコミにも鳴り物入りで登場するものには、押すな押すなの人ごみで、ゆっくり立ち止まって見られないようなものまである。
世の中の格差ではないが、博物館が両極化しているようだ。
たぶん、行政の側でも持て余しているのか、いったんハコモノとして作った後は、半ば放っぽりだしているようなものもある。それで、古くなってくると、なんとなくみすぼらしい感じまで漂ってくる。
博物館として生きているかどうかは、学芸員の人(またはそれに類する人)が、その力を発揮できるかどうかにかかっているのだろう。学芸員がひとりしかいないような場合でも、きらりと光るような博物館もあるし、専任の学芸員がいなくても、展示に関する思い入れを持った人々で支えられているような場合もある。
なによりも、博物館を作ったときの思いに、絶えず、立ち返るべきなのだろう。博物館として出発するときに、見せたい・見てもらいたい「なにか」があったはずだ。「なにか」は、「もの」であったり、「テーマ」であったりするのだろう。「テーマ」は、時代とともに、はやり・すたりがあったりするだろうが、「もの」は、それが本物であれば、時代を越えて価値を持ち続けるはずだ。その博物館にしかない「もの」を、いかに見せるかで、博物館の力量が試される。
博物館をとりまく情勢は、必ずしも良いことばかりではないようだ。行政などに振り回されるのではなく、博物館の本来の使命に立ち返って、がんばってほしい。