廃校のレトリック

先に、廃校について触れたことがある。そのときには、文章全体としては、学校を生物個体になぞらえるアナロジーのつもりだったが、今から思えば、学校をindividual になぞらえ、廃校を死体になぞらえることのそれぞれが、メタファーを構成しているのだった。

そして当時は、当事者や同窓会をどのように位置づけるのかが、よく見えていなかった。当事者は、学校全体の歴史の一部分に関わることになる。小さな学校ならば、ある時代の一断面に関わることになるが、例えば、東京大学のような巨大な学校ならば、ある時代のほんの一部分とだけ関係することになる。しかし、いずれにしても、学生や卒業生や教職員などは、自分の体験と学校の間に、当事者にしか理解し得ない独自のメトニミー的関係(領域)を構成するに違いない。そのような人たちの集まりが同窓会なのだろうが、単なる烏合の衆ではないのは、なんらかの擦り合わせができるメトニミーを共有しているからだろう。

もちろん、それぞれの人が関わった部分は、学校全体からみればほんの一部分に過ぎないのだが、そこから不可視の“全体”を勝手に想定していることもあるのだろう。そのような全体や本質を想定することが、心理的本質主義だと言われるわけだが、そのような部分から“全体”への“飛躍”はメトニミーなのだろうか。私には、メタファーだと思える。

廃校や廃墟ブームにどこか違和感を感じたのは、それがメタファーとして語られていることにあったと思う。当事者にとっては独自の思い出に結びつくようなことを、歴史や廃墟一般などのメタファーで、ひとくくりにしてしまうことへの違和感だった。メトニミーで語られるべき「記憶」や「場」を、メタファーで語ってみたところで、実体のない幻ということにしかならないのだろう。